世界で最も過酷と言われる耐久レースを舞台にした映画『栄光のル・マン』。公開から50年以上経った今も、熱狂的なファンに支持される伝説的な作品です。
劇中で主役を演じるスティーブ・マックイーンが語った、「レースこそ我が人生。その間はただの待ち時間にすぎない」という一節。これはポルシェとモータースポーツの深い関係を想起させる言葉であり、まさにポルシェ社が理念の一つとして掲げてきた言葉でもあります。
しかし2014年当時、ポルシェの研究開発部門最高責任者であるヴォルフガング・ハッツ氏はその一節を受けて、こう話しました。
(我々の部門からすると)その間は待ち時間ではなく、車輌開発(の時間)です。ポルシェの新型車開発プロジェクトは常にレーステンポで進行しています
2014年クリストフォーラスマガジン366号より
自動車産業においてモータースポーツは、新型車PRの場であり、新技術実験の場であり、そして車両の耐久試験の場でもあります。
特に、冒頭の映画の舞台にもなった、フランスで開催される「ル・マン24時間レース」は、大部分が公道を使用した過酷なコースを、変化する天候に構わず24時間ノンストップで走り続ける戦いであり、技術革新の最先端を担うレースとして知られています。

そして、このル・マンで、ポルシェがそれまで貫いていたコンパクト・スポーツカーというスタイルから脱却して、社の命運をかけた「大きな勝負」に挑んだのをご存じでしょうか。
本稿では、前記事「ポルシェ博士が人生を捧げた技術革新への挑戦|黎明記#1」より引き続き、歴史を通じて現代のポルシェの礎がいかにして築かれてきたのかを紐解いていきたいと思います。
すべての始まり〈356〉の生誕

1948年6月、戦禍を逃れるための疎開先だったオーストリア・グミュントの地で、ポルシェ社として初めての独自スポーツカー、ポルシェ〈356〉が生まれました。これは戦前にドイツ国民のためにポルシェ博士が開発した、〈フォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)〉をベースに造られた、ミッドシップエンジンのオープン2シーターのスポーツカーです。
〈356〉は、ポルシェ博士が積み重ねてきた技術を元に、息子のフェリー・ポルシェの発案で生まれた、いわばポルシェ家の歴史が結実した車両であり、すべての始まりとなる車両です。その開発の裏側では、戦争によって極限まで抑圧されていた技術者たちの情熱が、ビッグバンのように一気に爆発したのかもしれません。
一般的に〈356〉というモデルは、後の〈911〉へ繋がるリアエンジン・リアドライブ・スポーツカーの始祖的存在として認識されてます。しかし、最初に生み出された〈ポルシェ356“No.1”ロードスター〉は、リアエンジンではなく、ミッドシップエンジンとして生を受けたのです。初めて知る方は驚かれるかもしれませんね。(上の写真がその実車)

実はその1号モデルの生誕直後に、〈356〉は実用性を踏まえて後部座席スペースを確保するべく、エンジンを最後部へ移し、ルーフのあるクローズドボディとして、すぐさま改良されました。このエピソードこそ、ポルシェが類まれなスポーツカーブランドとしての不動の地位を確立することができた、最大の理由でしょう。
ポルシェの車づくりにおいて、スポーツカーに「日常での実用性」を付随させる理念がこの時すでに生まれていたのです。そして、この〈356〉の成功を見届けたポルシェ博士は、多くの“同志たち”に見守られながら、1951年1月30日、75年に渡る激動の生涯に幕を下ろしました。
ストゥットガルトで行われた葬儀では、埋葬される“安らぎの地”ツェル・アム・ゼーまでの道を、世界中から集結した人々の車列が延々と連なったそうです。
ポルシェを世界に知らしめた
「ル・マン24時間レース」

ポルシェ博士の永眠から約5ヶ月後の1951年6月、〈356〉はル・マンの舞台に降り立ちます。
様々なアクシデントにより、たった一台のみで参戦した〈356SL〉は、関係者の不安が渦巻く中、なんと、見事24時間を完走しただけでなく、1,100ccクラス優勝、そして総合でも20位という好成績をいきなり手中に収めてしまったのです。

既に市販車モデルは販売台数を1,000台まで伸ばしていた〈356〉ですが、ル・マンでのクラス優勝が大きな宣伝となり、人気が跳ね上がりました。〈スピードスター〉、〈356A〉、〈356B カレラ2〉など、多彩な市販車が続いて生まれ、1965年に〈911〉へ完全にバトンを渡すまで、銀幕のスターをはじめとする世界中の車好きを虜にしたのです。


最強マシン〈917〉とともに
ポルシェが手にした栄光
しかし、〈356〉や〈911〉の登場でポルシェの知名度が上がっても、ル・マンで総合優勝することはなかなか許されませんでした。〈550RSスパイダー〉、〈904カレラGTS〉、〈908〉など、新型のポルシェ・レーシングマシンたちが世界を舞台に、数々のレースで勝利を収めてきたにもかかわらず、ル・マンの女神だけはポルシェに微笑むことはなかったのです。
そこでフェリーは覚悟を決め、勇気ある決断を下しました。ル・マンで勝利するために、既存モデルの系譜から脱却し、大排気量のグループ4を見据えた大型車両の開発に着手するという、「大きな勝負」に出たのです。
これまで軽量コンパクト・スポーツカーを主力商品としていたポルシェにとって、大排気量マシンの開発は困難を極めました。しかしモータースポーツで車両性能を突き詰めてきたポルシェの意地もあります。
発案より2年後、さまざまなトラブルを乗り越えて改良を重ね、後に最強のレーシングマシンと称される〈917〉(排気量4,494cc、最高速度340km/h、180度V型12気筒エンジン)が誕生したのです。

1969年のデビュー年こそ、完成度の面から目立つ結果は残せなかったものの、翌1970年に、ショートテール化されてダイナミクスが抜群に上がった改良版〈917K〉は、デイトナ24時間レースでの優勝を皮切りに、南アフリカ、ベルギーなど、世界各国のレースを圧倒的な強さで制覇していきました。そして、満を持してル・マンに挑んだのです。
レース当日はスタートからまっすぐ走れないほどの大雨に見舞われ、出走した51台のうち完走した車はたった7台のみという、史上最悪となる大荒れの大会に。
しかし、ポルシェ・ザルツブルグのゼッケン23〈917K〉がレース中盤からトップに立ち、ついにポルシェは悲願のル・マン総合優勝を手にしたのです。さらに2位に〈917LH〉、3位に〈908/2H〉が続き、1 – 2 – 3 フェニッシュでポルシェが表彰台を独占する圧倒的な勝利を収めました。

現在に至るまでル・マン最多の優勝回数を誇る、ポルシェ最強伝説ショーが幕を開けた瞬間でした。〈917K〉は翌年もライバルの追走を許さず、各レースで快進撃を続け、ポルシェの黄金期を築きました。
しかし、速すぎるあまり、表彰台を独占しすぎたことや、レースが高速化して危険度が飛躍的に増したことなどから、ヨーロッパやアメリカでのレース主催者側によって、〈917〉が出場できなくなるようなレギュレーション変更が行われたのです。
そうして〈917〉は、またたく間に世界のカーレースの舞台から姿を消していきました。
その後、〈917〉の魂は37年の時を超え、2010年にジュネーブ国際モーターショーで発表された一台のスーパーマシンへと引き継がれます。ポルシェ初の公道を走れるハイブリッド・スーパースポーツカー、〈918スパイダー〉です。2013年から918台のみ限定で生産がスタートしました。
〈917〉へオマージュを捧げたスーパーマシンは、EBI GROUP の各新車拠点からも極少数台数をお客さまのもとへお届けしました。

ポルシェのヘリテージとは
ファンの間で〈917〉は、創業一族であるポルシェファミリーが直接開発を主導した最後のレーシングマシンであり、勝負のルールさえも変えてしまった最強マシンという伝説も相まって神格化されていきます。しかし、〈917〉を生み出す決断をしたフェリーは日頃つねづね社員には、このような言葉をかけていたようです。

モーターレーシングで偉大な成功を収めるためには、生産する車がよく売れて、商売が赤字にならなければ、そのときのみ、その願望が達成され得る
Professor Dr. Ing. H. c. Ferry Porsche with Gunther Molter、青山学院大学元教授 齋藤太治男・訳、「FERRY PORSCHE CARS ARE MY LIFE ポルシェ その伝説と真実」、三推社・講談社、1993、p.188より引用
ポルシェは、モータースポーツのために車両をつくるのではありません。モータースポーツで突き詰めた技術は、スポーツカーとして楽しく、そして快適に公道を走るための技術に活かされてこそ、開発の意義がある。それを忘れることなかれと説いたのです。
フェリーは工学者の立場であり続けた父親・ポルシェ博士と違って、経営者としての視点を持ってレースに臨みました。だからこそ現代の私たちは、プロのようなドライビング技術を持ち合わせていなくても、レーシングマシンの遺伝子が息づく「ポルシェ」の力強きドライブフィールを享受できるのでしょう。
ポルシェのヘリテージ、それはまさにポルシェファミリーが紡ぎ、一貫して守ってきたレーシングマシンの魂なのです。

そしてその魂を燃やし続けようと、EBI GROUP でも2012年よりレースチームを立ち上げ、ポルシェカレラカップジャパンに参戦して以降、国内最高峰のシリーズに挑戦し続けています。
レースには、普段はグループのディーラー工場にてお客さまのポルシェの整備を担当するテクニシャンがチームに帯同し、共に戦っています。
通常は気づかないようなレベルの微細なミスが大きな事故につながりかねない、極限の状況下で、多くのテクニシャンたちがポルシェのレーシングマシンと向き合ってまいりました。そしてレースという極限の現場で鍛えられたテクニシャンたちは、お客さまの安全を守る責任感を常に胸に抱きながら、その経験と技術を日々の整備に役立てています。
製造者サイドと販売整備サイドでスタンスは異なるものの、ポルシェのレーシングマシンをコンマ1秒でも速く走らせようとする情熱と、勝利を手にしたときの喜びと興奮、感動は同じでしょう。「大きな勝負」に出たのなら、なおのこと。
日本最大のポルシェ正規ディーラーである EBI GROUP はレースでも、レース外でも、全社員がブランドアンバサダーとして積極的に業務に取り組んでおります。そしてお客さまに、安心して快適なポルシェライフを謳歌していただけるよう、将来にわたりかけがえのない信頼関係を築いていくべく、日々ショールーム運営を行って参ります。
Driven by Dreams. - 夢に駆られて

Words:Tatsuhiko Kanno / Yuki Kobayashi
Photographs:Porsche AG