フェルディナント・ポルシェ博士が独立・開業してから、95年。そして最初のポルシェの名を冠したモデル〈356〉の生誕から、77年。ポルシェ社は多くの人々に支えられながら、スポーツカーブランドとしての名声を世界中に広めてきました。
しかし「ポルシェを支えてきた人々」と聞くと、直系の創業一族であるファミリー以外では、どのような人物を思い浮かべるでしょうか。独立時に博士を支えた主任技師のカール・ラーべ、〈356〉を生んだデザイナーのエルヴィン・コメンダなど、その多くは男性です。
では女性がポルシェの歴史に存在しなかったのかといえば、そうではありません。ポルシェブランドの黎明期から、女性たちもヘリテージの築きに貢献してきたのです。

春の息吹が聞こえる頃、3月8日は「国際女性デー」として知られています。 1904年3月8日に、アメリカ・ニューヨークで女性労働者が婦人参政権を求めて起こしたデモが起源となり、1975年に国連が制定しました。
世界が女性の社会的、経済的、文化的、政治的な成果を称える「国際女性デー」にちなみ、本記事では、ポルシェにまつわる女性たちに注目します。とりわけ、ポルシェ黎明期のファミリーを支えた女性たちにスポットライトを当て、彼女たちの功績を称えることで、EBI DIGITAL STUDIO は「国際女性デー」を応援したいと思います。
ポルシェのファーストレディ
ルイーゼ・ピエヒ
創始者フェルディナント・ポルシェ博士の長女、ルイーゼはオーストリア最高の女性実業家のひとりです。第二次世界大戦後、1970年代初頭にかけてポルシェグループで最も影響力のあった女性といわれています。

究極のクルマ好き両親に育てられたためか、はたまた、1910年に開催された「ハインリッヒ皇太子レース」でポルシェ博士の優勝ウィニングランに同乗したことがきっかけか、若きルイーゼはクルマの虜となりました。
ルイーゼは19歳の頃、アマチュアのレーシングドライバーとしてモータースポーツの世界に飛び込みます。メルセデスのコンプレッサーを搭載したレーシングカーを相棒に、「南ドイツツアーレース」や「AvD-カルテルレース」(1927年開催)などに出場し、屈強な男性ライバルたちとレースの最前線で競り合ったのです。
そもそも、女性ドライバー自体が「驚きの現象」と見なされていた時代です。ルイーゼの活躍はさぞかし世間の度肝を抜いたことでしょう。

「母は自分の前に、別のクルマが走っているのを毛嫌いする人でした。2番目では満足できないタイプでね」
(2023年クリストフォーラスマガジン411号より)
と、ルイーゼの長男エルンスト・ピエヒが語るほどのレーシング・ドライバー気質。
走るときはスピードを求め、その速度を極限まで楽しめるほどのテクニックを持っていたルイーゼは、なんと90歳になるまで911の運転を楽しんでいたそうです。

ルイーゼは1928年に、父ポルシェ博士が最も信頼していた法律専門家である、ウィーン出身の弁護士アントン・ピエヒと結婚します。彼は、ポルシェ博士の独立・開業を全面的にサポートし、ポルシェ設計事務所の顧問弁護士として所属しました。
弟フェリーと共に、幼い頃から父の仕事に関わってきたルイーゼですが、裏方に徹していたためか、ポルシェに関する伝記の中で目立つ記述は非常に限定的です。そんな彼女がその辣腕をいかんなく発揮したのは、戦時中のことでした。
実業家ルイーゼの目覚め
家族・農場・設計事務所を存続させるために

第二次世界大戦の開戦後、1943年よりポルシェ家とピエヒ家は、オーストリアのザルツブルク州ツェル・アム・ゼーにあるフェリーの自宅「シュットグート」へと避難し、北東のグミュントの製造工場と行き来しながら、一つ屋根の下で生活をしていました。社員やその家族も含めて30人以上いる家で、中心に切り盛りするのは女主人・ルイーゼです。

シュットグート農場の作物のおかげで家族や従業員は飢えることはなかったものの、戦後、ルイーゼの父ポルシェ博士・夫ピエヒ・弟フェリーが、揃って無実の「戦犯」容疑をかけられ、フランス内に投獄されるという苦難に直面します。
ルイーゼは、その細い双肩に、従業員たちを含む大家族の庇護だけでなく、命綱でもあるシュットグートの農場経営、さらにグミュントのポルシェ設計事務所の存続という3つの重い責任が課されたのです。
襲ってくる不安や恐怖を振り切り、ルイーゼは力強く行動に出ます。主任技師であるカール・ラーベと共に事業を再開させ、連合軍の〈キューベル・ワーゲン〉や水陸両用車などの修理を地道に請け負いながら、ケーブルウインチやトラクターを少量生産するなどして、大家族を切り盛りしていきました。

そして、戦争による危機を乗り越えてから、初となるポルシェ独自スポーツカー〈356〉製造の契機をもたらしたのも、他でもないルイーゼでした。彼女の人脈が、戦後初の設計依頼主である実業家ピエロ・ドゥシオとポルシェをつないだのです。
実業家の依頼は、グランプリ・フォーミュラーカー「チシタリア」の製作でした。
既にひとり解放されていたフェリーと共に、ルイーゼはこの契約を無事に結び、会社の活気を取り戻しただけでなく、「チシタリア」の契約金をもって父ポルシェ博士と夫ピエヒの保釈金を用意。ついに2人をフランスでの約20ヶ月にも及ぶ投獄生活から釈放することに成功するのです。
そして念願の独自スポーツカー、〈356〉の開発を成功させ、全ての歴史がスタートしました。

ポルシェ博士の長女たる使命
ルイーゼの決意
1949年にフェリーは〈356〉の生産をドイツ・シュトゥットガルトに戻すも、ルイーゼとアントン・ピエヒの夫妻はそのままオーストリアに残ります。
姉弟は〈356〉を契機にフォルクスワーゲン社と結んだ協力関係を利用して、オーストリアでのフォルクスワーゲンの総輸入代理店として独占販売権を獲得しました。そしてルイーゼは夫のピエヒと共に、ポルシェ・ザルツブルグ社を設立し、経営していきます。

しかし、事業が軌道に乗り始めたさなか、夫であるアントン・ピエヒが若くして死去し、ルイーゼは48歳にして、たったひとりで販売会社を取り仕切ることになったのです。
戦時中から戦後にかけて、どんな過酷な環境でも常に前を向き、家族を守った彼女は、今度は従業員に対する強い責任感を持って、その商才を発揮します。そして、彼女はあらゆる困難を跳ね除け、その販売会社を数十年かけて、ヨーロッパ最大の自動車販売会社である Porsche Holding Gesellschaft m.b.H. へと発展させました。
彼女は大きな運命の流れの中で、時代と必要に迫られて、オーストリアが誇る最高の女性実業家のひとりとなったのです。ルイーゼの息子エルンスト・ピエヒは、「母は幼い頃から、ポルシェ博士が築いたものを守っていく義務感のようなものを背負っていたのだと思います」と語っています。
ルイーゼが幼い頃、父であるポルシェ博士の助手席で見た光景がどんなものだったのか知る由もありません。しかしその原体験が、彼女をここまで突き動かしたのだとしたら……。
やはりポルシェのクルマが人に与えるエモーショナルな衝撃は計り知れないのかもしれません。
女傑・こだわりの一台
ルイーゼの70歳の誕生日、弟であるフェリーからポルシェのファーストレディにふさわしい贈り物がありました。当時まだ世に出ていない、ターボエンジンを搭載した930型〈911 Turbo〉のプロトタイプモデルです。


ターボチャージャーが備えられた 177 kW (240 PS)の2.7リッターエンジンを搭載した〈911 Turbo〉第1号であるこのモデルは、スピードを求めるルイーゼにお誂え向きの車といえるでしょう
スタイルを見てみると、後に市販される〈911 Turbo〉を特徴づける、張り出したブリスターフェンダーは備えていません。しかし、リアにはラバーで縁取られたリアウィング“Whale tail(鯨の尻尾)”を装着しています。


インテリアは、ルイーゼのこだわりの赤と濃紺のタータンチェック柄に、テラコッタのレザーシートが組み合わさったオシャレな空間です。なかなかのこだわりが見える一台です。
ポルシェの守護人として
支えてきた女性たち
ルイーゼは、男性が主体だったかつての社会へと足を踏み入れ、その力を遺憾なく発揮させた、まさに“開拓者”です。当時、彼女の背中を見て、勇気をもらった女性たちも相当多いでしょう。しかし一方で忘れてはいけないのが、ビジネスを裏で支えた女性たちの存在です。
ポルシェ博士をクルマの世界へ導いた妻
アロイジア・ヨハンナ・ポルシェ

フェルディナント・ポルシェ博士の妻、アロイジア・ヨハンナ・ポルシェ(旧姓・ケース)。彼女は独身時代には、婦人解放運動の先駆けとも言われていた婦人労働に従事し、電気モーター工場で簿記係として働いていました。
ポルシェ博士とアロイジアの出会いは、電気機械メーカーのベラ・エッガー商会でした。地元の有力者であり絨毯工場社長のギンツカイからの薦めで勤務するようになった若きポルシェ博士と、アロイジアはそこで出会い、やがて恋仲となります。
ポルシェに転機を与えたアロイジア
ポルシェ博士が、電気自動車開発を手掛けていたヤコブ・ローナー社に転職した経緯を、「ポルシェ博士が人生を捧げた技術革新への挑戦|黎明記#1」でお伝えしました。
しかし、ポルシェ博士と「クルマ」そのものの出会いはどうでしょう。ひとつ、“伝説”として語られているのが、「ジークフリート・マルクスのつくった自動車に刺激を受けた」という博士のエピソードです。そして、そのきっかけを与えたのが、他の誰でもないアロイジアだったのです。
車好きのアロイジアは、ポルシェ博士をウィーン工芸博物館に誘います。そこでポルシェ博士は、オーストリアの発明家で、自動車開発の先駆者であるジークフリート・マルクスが1875年に制作した、石油ガスで走る内燃機関の自動車の展示を見て、ものすごい衝撃を受けたそうです。

二人分の夢に駆られて
その数年後の1902年、ポルシェ博士は婚約者となったアロイジアを、自ら開発した世界初のハイブリット動力車〈ローナー・ポルシェ〉に乗せます。そしてオーストリア・ウィーンから故郷のベーメン王国マッフェルスドルフ(現・チェコ共和国)まで、直線距離にして300kmもの荒れた道のりを走行し、実家へアロイジアを連れていくのでした。
アロイジアはそのとき既に彼女自身の夢を、ポルシェ博士の夢に重ね合わせたのではないでしょうか。何せ、次々と職場を変え、独立しても営業上の採算を省みず技術開発に没頭する、天才肌のポルシェ博士を支えてきたのですから。その懐の広さには頭が下がりますね。
一人ではなく、二人分の大きな夢に駆られて。どんなときでも共に走り続ける覚悟を決め、その通り、彼女は人生を貫き通したのでしょう。
アロイジアがもつ先見の明、大胆な行動力、そして深い愛情は、ポルシェ・ファミリーきっての“女傑”である娘・ルイーゼにやがて受け継がれました。
音楽から車の世界へと誘われた貴婦人
ドロテア・ポルシェ

フェリー・ポルシェの妻、ドロテアは本来クルマに明るい人ではなかったのでしょう。
二人の出会いは、フェリーが夏のバカンスの帰りに乗った列車の中。ドロテアに一目惚れしたフェリーは、その何日か後に、シュトゥットガルト付近で彼女と運命的な再会を果たし、猛アプローチします。
バイオリンケースを抱え、電車で帰宅しようとする彼女を、フェリーは速さが自慢の車(明言されていませんが、もちろんポルシェ製でしょう)に誘い、ちゃっかりデートをしながら家へと送ったのです。
1935年に結婚後、二人は名車〈911〉を生み出したブッツィー・ポルシェを長男とする4人の子どもを授かりました。そして戦争によって家族を引き裂かれながらも、ドロテアは義姉ルイーゼと共にポルシェ一家を守り、子どもたちを健やかに育て上げたのです。

ビジネスの最前線で活躍したルイーゼ・ピエヒとは違い、ポルシェ博士の妻アロイジアと、フェリーの妻ドロテアが表舞台に出ることは稀で、ポルシェ史に功績が記されることはありません。
しかし、その慈愛に満ちた波乱の人生を無視することはできません。3人とも立ち位置は異なれど、黎明期からポルシェブランドを支えてきた立役者であることは間違いないのですから。
EBI DIGITAL STUDIO はこの記事をもって、過去から現代まで、時代を超えてポルシェを支えてきたすべての女性たちに敬意を表し、その生き方と力強さを称えます。
そして、より良き男女平等社会の実現に向けてエールを送ります。
ポルシェスタジオ銀座では3/8(土)〜3/9(日)の2日間、女性のお客様を特別な彩りでお迎えいたします。The Momentum by Porsche のスペシャルデザートセットを特別価格でご用意し、このセットをオーダー頂いたお客様へミモザのミニブーケをプレゼントいたします。詳しくは、ポルシェスタジオ銀座の公式インスタグラムをご覧ください。

Words: Yuki Kobayashi / Tatsuhiko Kanno
Photographs:Porsche AG